「夕べになっても光がある」 02.08.04
ゼカリヤ14:T〜9、黙示録21:23〜25
私たちは、この世での生活をしながら、様々な現実に目が奪われます。
世界で起こっている悲惨な現実の数々に、心を痛め、嘆きます。
自分自身の生活に起こってくる様々な事柄にも目を奪われます。
そんな私たちに、御言葉は「見よ。主の日が来る」と語りかけてくるのです。
主の日を見据えている時に、希望と力が与えられるからです。事柄に向きあい、
真に生きる者として整えられていくからです。
ゼカリヤ書に描かれるような悲惨な現実を目の前にすれば、心乱され、
振り回され、絶望しそうになるでしょう。しかし、それが最後の結末ではありません。
主の日には、神ご自身が戦って下さるからです(2節)。私たちのために逃れの道を
備えてくださり、私たちの所に来てくださるからです(5節)。
悲惨な現実だけを見るのでなく、この神さまの御言葉を信じて生きているのが
私たちです。
天地がひっくり返るような大きな出来事に直面した時も、私たちは、主イエスに
よって、すでに天に属するものものとされていることを忘れるべきではありません。
主イエスから「彼らは決して滅びず、誰も彼らをわたしの手から奪うことはできない」
(ヨハネ10:27)とおっしゃっていただいているのが私たちです。
困難な現実に直面しながらも、「誰も神の愛から自分を引き離すことはできない」
(ローマ8:37〜)と知って、神への信頼の中で誠実に生き抜いたパウロのように、
私たちも生きるのです。
私たちは、「夕べにも光がある」との、み言葉を与えられて生きるのです。
どんなに闇が迫る時でも、このまま闇に飲み込まれてしまうのではありません。
死の闇さえも滅ぼしてしまった主イエスという光に、私たちは照らされているからです。
この光を遮断するものは何もありません。そして、主の日は、私たちが主の光に
照らされていることがよりはっきりする時です。
恵みによって与えられるその日を見ながら、私たちは与えられている地上の生活を
進めていくのです。